家族|5歳のふしぎ 夕餉
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電灯
昭和の明かり

わたしは5歳でした。


そのころわたしたち一家は、
荒川区に住んでいました。


女子医大病院に面した商店街通りの、
豆腐屋の裏手の路地裏の借地に、


父がマッチ箱のような小さな家を建て、
3月生まれのわたしが5歳になる前後に、
北陸金沢から引っ越してきたのでした。



両親と学齢前のわたしと弟、
中学生の姉二人に小学3年の兄、総勢7人が、
3畳と4畳半、2畳くらいの台所という間取りに落ち着いたのです。


小さな家なのに、玄関は畳1枚分ぐらいありました。


金沢では、


父の幾度もの事業の失敗で、
祖父が営々増やした10件ほどの家作も底をつき、

とうとう
わたしたちきょうだいの生まれた家までが、
人手に渡ってから、


母とわたしたちきょうだいは、
継ぐ人の絶えた大叔父の残した家の「お蔵」に住んで、
父の迎えを待っていました。

「母屋」は人に貸していました。


荒川区の家に初めて入ったとき、
玄関から幼いからだを乗り出すようにして覗いたわたしは、


小さな部屋二つと台所の先に、
ネコの額くらいの裏庭らしきものを見て、


(玄関から奥まで見えちゃう家なんだ!)


と、とても、うれしかったのを
60余年たったいまでも覚えています。


金沢の家は、
幼いわたしには、広くて暗くて陰気でいやだったのでしょう。


この狭さが苦痛になる日がまもなくくることなど、
そのときは、思い至るはずもありませんでした。


家族の中の序列

5歳のわたしは、まだ、
家族の中に序列があることに、
気づいていませんでした。

年下の弟は男なので別格。
だから、
「女の子のなかで一番下のわたしが、家族の最下位」だ、
ということにも。


なので、
あの夕餉の席でわたしに起こったことは、
ふしぎでなりません。



もしかしたら、わたしの潜在的な意識は、
そのときすでに、なにかしら感じ取っていたのでしょうか。


その夜、
当時はたいていの家にあった
折り畳み式の丸いちゃぶ台を囲んで、


わたしも含め、
家族全員がそろって夕餉に着いていました。



会話もいつもと変わりなく交わされ、


折に触れ起きることのあった父母の口げんかも、
その夜はありませんでした。


頭上には二股ソケットの電灯が点いていました。


円錐形の乳白色の傘が光をまあるく区切って、
食卓とその周りを囲むわたしたち家族を照らしていました。



光の輪から逸れた後背の壁際は、すこし暗くなっていました。


それはふいに起きたのでした。


まったくとつぜん、なんのまえぶれもなく、
わたしは、自分の体がスッと後ろに下がり、
頭上からの光の輪の外に出たのを感じました。


そして、わたしは、すこし暗いその位置から、
なにごともなく食事を続けている家族を眺めていました。


自分の食べかけのお茶碗と箸を手にしたまま。



ちゃぶ台



記憶は、そこで、ふっつり途切れています。


そこまでの記憶の鮮やかさを思えば不思議ですが、
とつぜん終わっているのです。


記憶は、60余年を経たいまでも、
褪せることなく鮮明に残っています。


自我意識の目覚め?

(あれはなんだったのだろう)
長い間、ときどきその夜のことを思い出すたび、
かんがえました。


あるとき、ふと、
あれは「自我の目覚め」だったのかもしれない、
と思いました。



もしかしたら、
専門で心理学を修めた方なら、
理由がわかることなのかもしれません。


それにしても、
その後、
わたしが思春期に至ってひそかに感じた、
家族への違和感や、


その後のきょうだいとのあれこれを思うと、
両親はともあれ、
きょうだいについては、


あの夜わたしに起きたことは、
なんだか象徴的な意味があったような気がしてしまう
のです。

ちなみに、
彼らとわたしは同じ父母に生まれた、
正真正銘疑いようのない血縁の「姉妹兄弟」です。


ただ、価値観や正義感などは、
なぜか家族の中で、わたしひとり異なっていました。


かれらが「価値がある・重要だ」とかんがえることは、
わたしにはどうでもいいと思えることが大半でした。




「ひふみは変わってる」
ときどき姉たちがいいましたが、

わたし自身、(自分はすこし、変わり者なのかもしれない)、
そんな気がしていました。


一間ひふみ・東京



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ごはんがおいしいと、
なんだかしあわせなんだよね。

生きてるっていいよね、
そんな気がする人、多いんだね。

食卓、明るくなります
バルミューダ 炊飯器。